写真俳句始めました

若い時は行動力があって
あちこちに行って写真撮影をしたものですが
最近はせいぜい県内ぐらいで又散歩ぐらいで
写真撮影をし俳句を作って楽しんでいます。
人間年を取りたくないもんですね。
遊びで撮影し俳句を作ったものです。
ご叱正まで
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世界経済危機の本質

世界経済危機の本質(2011.11.3 岩内レポート)
 産業革命以後、先進諸国は資源と市場を求めて領土拡大を行なった。それはマネーの法則に突き動かされたあらたな帝国主義であった。
 やがて、いわゆる列強の拡大した領土は境界を形成し、領土を略奪する市場再編成の戦争、帝国主義国間の戦争の時代へと進んだ。
 こうした一つ一つの国家の進化過程では、「過剰生産恐慌」論という経済法則が働いている。ある商品の不足があると、その生産のために投資活動が活発となる。結果として設備が過剰となり、商品が余る。不要な商品は売れないし、売る為のダンピングが起きる。つまりデフレ不況が発生する。こうした波が一つの域内で発生する限り、好況と不況は繰り返されることになる。
 だがそうした閉塞状況から抜け出す方法がある。それを市場拡大=領土拡大に求めたのが帝国主義である。

 帝国主義戦争の時代になると、市場の拡大と言う外延的拡大による成長条件だけでなく、つまり戦利品だけでなく、戦争行為そのものが新たな需要・市場を生み出した。兵器産業で技術革新が進み、しかもその市場は戦争が続く限り保障された。兵器産業に参入した企業は莫大な利益を得た。
 武器購入のために先行投資した国家(政府)は、その負債を、兵器産業の好景気による税収の増加と、国民からの戦費調達、敗戦国からの賠償によって補うことが出来た。帝国主義戦争の原形的ビジネスモデルである。ただしこの原形モデルが永続したわけではない。実際にはそのモデルで説明できたのは第2次世界大戦前までである。ところが多くの人は、帝国主義と戦争をこのモデルで理解している。その結果今日の情勢に対して全く対応できていない。

 原形的帝国主義戦争では、戦勝国は莫大な利益を得た。ただしこの戦争は、敗戦国市民を殲滅することが目的ではない。自国市場に組み込むことが目的である。拡大した市場はやがて狭隘化し、次の拡大要求に迫られるが、敗戦国を組み込むことで、その緊急性は緩和される。
 それだけではない。中国のような広大な市場、地域を完全に自国市場に組み込むことは出来ないし、したがって市場の秩序維持は他者に委ねられる。当然その他者は、他の帝国主義国家も含まれる。したがって勝利した帝国主義国家は、次の戦争に向けて準備を迫られるし、その規模は拡大する。それが、一旦は清算できた国家の負債を再び膨らませる。
 アメリカはテキサス併合によってそれ自体広大な領土を保有していた。流入する移民の増加が、それ自体で市場拡大を保障した。したがって第一次大戦までのアメリカは、領土拡大に狂奔するヨーロッパに対しては距離を置いていた。
 それ自体の領土、市場が無限でないことを思い知らされたのは、1929年の恐慌である。それでもアメリカは、ニューディールによってなんとか市場経済の完全な崩壊を免れた。だが、世界の成長センターであるアメリカの景気後退で、世界経済はアメリカ以上に混乱に陥れられた。アメリカのこの余裕が、ヨーロッパ諸国のような自国の何倍もの植民地を支配しようと言う狂気に陥れなかったともいえる。
 そのアメリカの主導権により、第2次世界大戦以後の世界、国連は戦争による領土の拡大、国境の変更を禁止した。つまり過剰生産恐慌=戦争による市場拡大という最初の一手は禁じられた。
 戦後体制を受け止める側には、この変化が理解できていない者が多い。その上、理解している部分は「アメリカの支配」という悪意を持ったアピールにより、アメリカが領土拡大を目論んでいると宣伝する。それを信じ込んだ連中の反米闘争は、領土を守る民族主義闘争へと捻じ曲げられる。
 第2次世界大戦後のアメリカの狙いは領土拡大による市場拡大ではない。荒廃した世界の復興による、自由貿易を基軸とした市場拡大であった。だがアメリカの意図が領土拡大だと信じる部分を組織した反米勢力が、このアメリカの目的を阻み続けた。そこで生まれたのが冷戦体制である。

 冷戦体制は2面の効果を持っていた。アメリカを盟主とした自由主義市場は、共産主義への恐怖と言う踏み絵によって域内の秩序が維持された。また、武力均衡を保つ為の軍拡競争は、軍事産業市場の無限とも思える市場拡大をもたらした。
 アメリカの軍備強化のための財政支出増加に対してだれも文句を言わず負担増を受け入れた。アメリカ国債も、当然無条件に引き受けられた。
 アメリカの国家資本は、軍事産業を通してアメリカ市民にばら撒かれた。市民の旺盛な購買によって企業は潤い、税金や国債売却により国家財政に還流した。当然世界からアメリカ市場に資金が流れ込んだ。
 日本にとって冷戦は今日の地方自治体の原発と同じ効果をもたらした。冷戦特需こそが実は日本の経済成長のエンジンであった。そして日本にもたらされたマネーは、アメリカ国債保有と言う形で還流した。

 ソ連崩壊と冷戦終結。ここに今日の世界経済危機の基点があると言える。日本にとっては正にそのとおりである。ただし、冷戦と言うマネー鉱山の資源枯渇によって一直線に今日の危機に進んだのではなかった。アメリカは、金融市場自由化を基軸にして、国境が取り払われた地球全域に単一市場を作ることで、市場の閉塞を回避しようと試みた。投機資本は、世界中を動き回り、あるところに突然ブームを巻き起こし、そして破滅の淵に突き落として来た。世界経済、世界総資本の利害と個別国家、個別資本の利害の対立が噴出し続けた。それでもしばらくは、世界協調によって致命的な破滅は回避され続けた。
 この総論と各論の矛盾が、今世界的に極限に達しようとしている。EU内部で各国間の格差が広がっているだけではない。各国内でも格差が広がっている。
 日本を例にとれば、東京と地方の格差拡大は止まる所を知らない。原発立地地域とそうでないところの格差も大きい。さらに東北は、経済規模を大きく低下することが確実である。そしてその格差を是正する国家、国家財政は破綻状態である。日本のこの状態が、実は世界の各地に同じ状態を作り出しているだけでなく、世界の状態がその総合されたものである。

 過剰生産の実態、市場狭隘化の実体は本当に地球規模のものとなっているかと言えばそうではない。世界経済危機からすら取り残された地域が存在する。ハイチでは大震災からの復興が遅れ、いまだに伝染病患者も多発している。アフリカで多くの飢餓地域がある。こうした地域に復興資金が投入されれば、たちまちにして需要は膨れ上がる。それは東北に復興特需をつくるのと同じ原理である。
  例えば東北について考える。日本政府は復興特需を生み出す資金力を持っていない。だがもし、日本政府が東北への投資に対して十分な保障を与えれば、不況で行き場を失った投機資金はたちまち東北に流れ込むだろう。
 同じようなことがアフリカ、例えばソマリアなどで考えられないか?問題は治安である。それは個別資本の対応ではどうにも出来ない。その結果として最貧地域は放置されている。ソマリアなどの治安が安定し資金が流入すれば、そこは新たな世界成長センターとなり、投機資本にとっても新たな投資先となる。それが出来ないのは、あるところには余りすぎ、無い所には皆無というマネーの偏在があるからである。そしてこの状態こそが、資本主義自由経済の根本的欠陥である。マネーは市場を循環しながらやがて偏在し、循環そのものが阻害されて、貧困によって経済が破綻するだけでなく、資本主義は機能不全に陥ってしまうのである。
 アメリカを中心とした世界金融資本のリーダー達は、ようするに目先の市場狭隘化に対して、その市場をとりあえず広げようとした。それが金融グローバリズムである。だが、目先の欲望、もっともっと儲けて利益を独占したいという欲望そのものが市場狭隘化の原因であることに気がつかない。彼らの富の独占が、最貧困国を生み出し、そこでは自由な経済活動の条件である治安が確保されない。世界の平和と安定の維持に万能であると思い込んでいたアメリカの軍隊は、冷戦後はクーウェイトでだけは、多国籍軍の中心となることでその役割を果たしたが、その後は完全に無力であることを証明した。秩序が崩壊し、世界市場から脱落していく地域に対しては、もはや世界の軍事力は全く無力である。

 冷戦終結後、成長センターはつぎつぎと場所を代え、巨大な中国だけが何とか長持ちしている。しかし中国は、成長センターになった時にはすでに世界経済に組み込まれている。それが、アメリカが長い間世界経済の支配者であった時と条件が違っている。世界の中でも中国国内でも、この世界的情況から安全ではいられない。
 マネーの偏在は社会に次のような情況をもたらす。
 富裕者と貧困層が混在する社会では、治安を維持する為に権力機構が強大化する。そのことで社会秩序が安定すれば、その社会は投資対象社会と評価され、マネーが流れ込み、地域経済は維持される。第2次世界大戦まではその極端な形はファシズムなどの全体主義として現れた。戦後でも、今日なお独裁国家として維持されている所は多い。さらに独裁者の富の独占を可能にし、石油輸出などで国家財政が潤っても民主化されなかった地域では、今激しい民主化闘争に曝されている。
 新たな傾向としては、強権支配で治安を維持するのでなく、市民の合意形成による格差縮小、というより貧困層の所得底上げで貧困層をなくし、治安の安定を図る北欧型社会民主主義の登場がある。
 ギリシャでは一握りの富裕者がほぼ国家を経営し、多数の労働者を公務員として雇用してきた。その安定を基礎に発行し続けた国債により債務超過に陥り、リストラが不可避になって市民、労働者の抵抗で混乱に陥っている。北欧のような市民の合意形成でなく、富裕者による公務員買収方式は、放漫経営による資金不足に陥って、あっけなく崩壊する。
 ソマリアスーダンなどの最貧国では、国家、政府は無力であり、暴力が日常を支配する無秩序社会となっている。部族や家族が集団を形成し、奪い合い、そこに含まれないものは僅かに国連難民キャンプで保護されて生き延びる状態である。
 日本の東北と比較すると各方面から非難を受けるだろうがあえて言う。日本国会は与野党足を引っ張り合って、東北の復興政策の実行が進まない。民間に蓄えがあるからこそ、そうした政府の対応が無い情況でも、東北人は秩序を保ち、自力での復旧に立ち上がっている。

 貧富の差などという言葉では言い表せない大きなマネーの偏在。それはどうして起きるのか。それはマネー自体の持つ法則ではない。資本主義というシステムに投入されたマネーの機能による。
 企業を経営するには資本が必用である。工業で言えば、原材料、エネルギー、労働力購入費、および土地代が必要である。それが多ければ多いほど競争力がある。そして競争に負けると言う恐怖感が、経営者を必要以上の資金蓄積に向わせる。生産や販売に使用されたマネーは市場に還流するが、競争力強化のために蓄えられたマネーはすぐには市場に還流しない。それが利子生み資本として金融市場に投入される。
 人は経営者である限りこの思考から逃れられない。余分のマネーを、儲けたとばかりに遊興に使う経営者は必ず破綻する。そうした経営者失格者は別にしても、まじめな経営者でも間違えれば破綻する。競争力だけでなく、破綻回避の為にも経営者は貯蓄する。したがって必然的にマネーは偏在し、循環が阻害される。こうした情況を緩和するために、連鎖倒産保険などの制度が設けられていて一定の効果を発揮しているが、効果は限定的である。
したがって資本主義である限り、この欠陥は払拭されることは無い。たとえこの法則に支配された経営者を排除してしまったとしてもそれは同じである。たとえ昨日までの被雇人である労働者が取って代わっても。
最近アメリカやヨーロッパで、富裕層から、「富裕層からもっと税金を取るべきだ」という声が上がっている。おそらく彼らは、経営と言う職務から解放され、資本主義マネーの法則から解放された結果、そのことに気がついたのであろう。皮肉をこめて言えば、富裕者の中には、貧困層との階級闘争で打倒され、資産を取上げられてしまわないためにはそのほうが得であると考えているのだろう。北欧型社会民主主義への接近と見ることが出来る。
経営者でなくても、マネーの魅力には取り付かれる。金貨でなく紙幣になった今日でも、お金を蓄えるのが趣味だと言う人は多い。そうした人の蓄えを市場に還流させる方法の一つが税金である。減税が景気を回復させると言う幻想の中で生まれた財政危機。その克服の為の増税は、とりあえずの危機克服には有効である。ただ増税には、マネーに精神を支配された中間層や貧困層が反対すると言う難点がある。たいした税金も払えないくせに!見方によっては、中産階級や貧困者のほうがマネーの法則に支配されているのかもしれない。だからマルクスは「労働者を解放せよ」と呼びかけたのだろうか?。

 日本ではプラザ合意による円高の昂進以前は、景気が良いといえば輸出拡大であった。それがバブル期には内需の比率が高くなった。最近日本の電化製品の競争力が低下した原因の一つとして、過剰性能、過剰品質が言われる。そのための高価格が、開発途上国といわれる世界の成長センターの市場では韓国や中国製品に競争力で後れを取っているといわれる。これは、バブル景気にわく日本の消費者のニーズに合わせた商品開発の結果である。
 不況の中で日本でも、低価格商品はシェアを伸ばしているが、それでも日本の消費者はまだ日本ブランドを好んで選択する傾向は強い。全く同性能、同品質の商品で比較される時が本当の競争力である。目的を持って、日本製に及ばない性能、品質の製品が売れることについては、実は市場ニーズの違いがあると判断される。そして日本製が売れないのは、市場の縮小と看做すべきである。つまり高性能、高品質、高価格商品を購入する消費者人口の減少、すなわち市場の縮小である。つまり市場とは、面積・人口だけで規定されるものではなく、購買力と言う要素が付け加えられる。ということは、貧富の差の拡大もまた市場狭隘化の大きな要素なのである。前にも述べたとおり、この格差がマネー循環を阻害するわけである。

景気は回復するのか

景気は回復するのか?答えはNOである。(2011.11.3 岩内 レーポートより)

 高度成長時代には、日本の景気はおおむね不況知らずであり、神武景気いざなぎ景気などの言葉で煽り立てられた。その時代の日本は、工業製品において急速に世界シェアを拡大していった。
 ニクソンショック不況、オイルショック不況の時は、高度成長によって拡大した財政力をバックにインフラ投資が大々的に行なわれ、いわゆる内需拡大が不況克服のエンジンとなった。また、家電・自動車産業は、蓄積した技術力によって世界市場でのシェア拡大が続き、それもまたエンジンの一つであった。
 プラザ合意による急激な円高が起きると、日本産業の圧倒的な技術力をもってしても日本産業の収益力を低下させた。そのため、日本産業の生産の海外移転が急速に進み始めた。これは、かって世界の工場であったアメリカ産業の辿った道と同じであった。
 日本企業は海外生産によって利益を確保できたが、国内産業は日本企業の海外工場との競争に曝され、競争力が低下していき、そのしわ寄せは日本の労働者に向けられた。派遣労働やパートタイム労働など、非正規雇用拡大と賃金低下。そして失業率アップと進んでいった。また製造業からソフト産業へと労働者の配置転換が進んだ。
 日本の産業政策当局が手をこまねいていたわけではない。産業のソフト化、インフラ整備によるソフト産業の地方分散や在宅勤務などが打ち出された。しかしそれはうまく行かず、国家財政については負債の増加だけが残された。
 一方プラザ合意による円高は、東京が国際金融センターとしての地位を高めるという希望が生まれ、投機マネーの東京集中が起きた。そのことで発生したバブル景気は、かっての日本経済のエンジンであった産業の復興ではなく、投機マネーの流入によってもたらされた。さらにそれは列島改造やふるさと創生に逆行した企業の東京一極集中をもたらした。
 投機マネーは安定経済を望むのでなく、一攫千金を求めて、常に成長倍率を求めて動き回る。したがって成長速度の鈍化した東京市場から撤退していく。そのことに対して日本の財政当局と経済界は全く手を打てなかった。景気がいい(実は過熱)ことを幸いに何もしなかった。エピソードとしては、町工場の経営者が、まじめな物づくり、つまり受注活動や技術開発を怠り、株や土地取引に現を抜かし、その儲けで給料を払う。つまり給料さえ払えば経営者の責任が果たせている、と思い込んだ。こういう話は町工場だけでなく、実はトヨタでさえ「トヨタ銀行」と呼ばれるほどに、マネー運用を経営の柱としたのがその時代である。
 バブルが去ると、日本政府は景気下支えの為、つぎつぎと金融財政政策を行なってきた。そのため日本の国債発行残高が膨らみ、金利負担を加えて、来年早々にも日本国家の負債は1000兆円に達すると見込まれている。
 以上が日本経済の今日に至る概略である。

 今、東北地震津波災害と原発事故に対する日本政府の対策が遅いと批判されている。その原因は、実は政治家や官僚の無能だけではない。日本国家が抱えるこの財政危機こそが最大の原因である。おそらく負債額が半分でも、政府や官僚は思い切った手を打つことは出来ないはずである。それは、財政体質を一気に悪化させるからである。まして現状ではほとんど手は打てない。
 しかし、復興債を発行し、資金供給を行なえば、必ず復興特需が起きて、すくなくとも景気は下支えされる。ただし、日本国債のランクが下がるとか、円が下がり、インフレが起きるという副作用は避けられないし、それが世界金融市場に影響を及ぼすことも事実である。さらに、復興債償還のために、いずれは緊縮財政を避けられなくなる。それを恐れるから日本政府は災害復興への積極的な政策実行が行なえないし、結局は被災者は自力で復興に取り組まざるを得ない。
 何よりも緊急性を要するこの大災害対応すら出来ない日本の経済財政当局が、景気回復のための財政出動など、絶対に出来ない。だが、復旧、復興資金調達(支出)で最も迅速な方法は予備費の支出、次が国債発行である。埋蔵金発掘や経費削減、国有財産売却などは時間がかかり、復興増税はもっと時間がかかる。なにより瓦礫処理やインフラ再生などの緊急措置に必要な資金は、国債発行で準備するしかない。
 ちなみに日本政府がこの時点で余剰資金を抱えていたとしよう。そのマネーは即刻災害地域の復旧に投入される。オールゼネコンは被災地域にその資材を集中し、復興特需、雇用拡大が起きる。それは日本の景気を一気に浮揚させるだけでなく、世界経済危機緩和のエンジンとなる。

 円安になれば日本の景気は回復するのか?ノーである。日本の企業は、3・11にかさなるヨーロッパの金融危機アメリカの不況という情況の中で、円安でなく円高になってしまった。国内における電力供給の不安定と東北の絶望的情況での円高を受けて、日本の企業は産業立地としての日本を完全に見放した。円安になったとしても、企業が国内での設備投資を増強する条件は失われた。さらに円安になれば、日本の輸入力は低下し、市場としての魅力すら失われる。つまり日本は、景気回復のエンジンを失ってしまった。

 悪い条件はまだまだ続く。被災地では工業や農業、漁業など、すべての生産要因が失われた。工場や企業従業員だけでなく、農業や漁業者も失業状態に陥った。その人達が働く場所を得て、継続的に生活費用を得ることが出来る状態。それが復旧の大前提である。ところが東北の被災者の、職場復帰や新たな就職は全く進んでいない。故郷を捨てた人には、全国の自治体などが臨時職員として雇用するなどの対応が行なわれているようだが、残っている人には全く明日への希望がもたらされていない。厚生労働省は、そうした人達を対象とした雇用保険支給を90日延長した。しかし情況が90日で改善しないことは明らかである。その場合再延長するのか?それとも生活保護に切り替えるのか?
 災害に関わる失業は東北に限ったことではない。分業が進み、全国に関連商品生産が分散されている今日、被災企業と取引のあった多くの企業が倒産や減産に追い込まれ、契約社員の雇い止めなど、失業は全国に広がっている。
 雇用保険は雇用者と被用者から徴収した雇用保険料が原資だから、理論上は国家財政に影響は与えない。しかし生活保護は国家財政からの支出である。すでにその額は年間3兆4000億円を超えている。財政危機の中でその負担はさらに増えることが確実である。
 したがって、景気は良くなるどころか、確実に悪化する。日本政府は、支出を絞るか借金を増やして復興支出を維持、拡大するしかない。そして絞られれば、国家からの資金投入でようやく生き延びている全国の地方自治体は、最早全く身動きできなくなる。
 日本国家が災害対応できない最大の原因は財政危機である。その克服の道筋が示されない限り、何の手も打てない。
 野田内閣は復興増税政策を打ち出した。国家の負債を増やさず支出を増やすのは増税しかない。国家資産の売却、埋蔵金の放出によって増税は避けられるという議論がある。資産売却や埋蔵金(これも資産である)放出は、経理的に見れば、日本の場合借金総額から資産を引いた額が本当の借金であり、したがって借金比率の拡大、つまり日本国家の信用縮小となる。したがって、純粋に国家の負債削減をしようと思えば、増税以外にはありえないのである。
 ところが政権与党の中から増税反対の大合唱が起きている。その前に、景気が良くなったら増税に賛成だという主張がある。いったいどうしたら景気が良くなるのか、そのことを一切語らない連中は、全く内容も無く、バカの一つ覚えの自己主張をしているに過ぎない。すでに述べたように、景気は良くならない。あるいは逆に、今の日本は十分に景気がいいとも言える。薄型テレビや扇風機はばかすか売れ、家電販売店は久しぶりに潤っている。海外旅行も決して大幅には減っていない。これ以上良くなるとは一体どういう情況を想定して言っているのか。「景気がよくなったら」と言う連中は、どうなったら「景気がいい」というのか明確に示すべきである。
 国家資産の売却や埋蔵金の放出は一事しのぎでしかない。もちろん緊急事態でありそれはするべきだが、長期、巨大な復旧資金がそれで足りるわけがない。国家公務員費用の20%削減ももちろん行なわなければならない。放漫財政で生まれた無駄使い体質は、徹底的に正さねばならない。今の所、災害復旧に必要な資金は19兆円と見積もられているが、これは、見積もりが余り膨大になると手のつけようがなくなり、日本はもう駄目だ、という悲観論が広がるから、当面最低限必要な金額が示されたに過ぎない。実際には最終的には災害復旧、復興事業に関する政府支出は、その2倍では収まらず、50兆円をどれだけ越えるかというレベルになると思われる。そして、保障されない個人、民間の損害を加えれば、災害で失われた資産の価格はどのくらいになるだろうか?
 今反増税派が言っているように、もしかしたら復旧についてはそれで足りるのかもしれない。しかし、復旧の為の国家の財政政策を阻んでいる1000兆円の負債についてはどうにもならない。緊急の問題は災害復旧と原発事故の制圧だが、日本が国家としての体を維持する為には、この1000兆円こそが最重要課題である。復興増税と言えば、復興には増税は不要だと問題をすり替える詭弁は許されたものではない。
 本来増税反対は、市民が主張すべきことである。官僚は、必要なら増税を市民に求め、政治家は官僚の提案に合理性があると認めたら、市民を説得するのがその役目である。歴史的に見れば、権力は常に増税を目論み、庶民は抵抗する。この構図から外れた反増税議員は、その職務と逆の行為を行なっている無責任極まりない連中である。なにより許しがたいのは、世論調査では50%以上が復興増税を認めている。にもかかわらず政治家が増税に反対していることである。増税なくして復興が出来るなら、身をもってしめせ!
 日本国解体を行なわない限り、誰が政権を取っても財政危機の問題を忌避するわけにはいかない。たとえ日本共産党が政権の座についてもそれは変わらない。例えばの話、自衛隊を解体したとしてもである。もっとも、東北大災害、原発事故に対して行なった自衛隊の緊急災害出動と功績を見た今日、自衛隊不要論で政権獲得は出来ないが・・・。したがって、まじめに被災地復旧を語るとしたら、増税を封印することは出来ない。

 景気は回復するのか?という問題設定からはいったが、実は日本は今後どうなるのか、というのが本題である。
 すでに述べたように、日本経済の成長の条件は失われている。だがハイチやアフリカの貧困国と比べ、日本は今の所豊な国である。しかも円高で、日本市民の持つ円資産価値は上がっている。デフレ、つまり市場の商品価格下落で、生活の為の必要経費は下がっている。年間所得200万以下の労働者の急増。無預金世帯の急増。などといわれてもまだ世界では十分富裕な社会である。団塊世代以上では、退職金の預金と現役世代の賃金より多い年金収入で、余裕ある生活を維持できている。そうした世代の支出と若い世代への生活援助で、生活破綻者の急増は抑制されている。実際には、円高にもかかわらずデフレ率は低く、価格の上がっている輸入品(特に石油と食料)もあり、それは、近い将来のハイパーインフレすら予感させるのだが。

 被災地は大都市部ではなかった。したがって被災者の数が面積に比較して少なかった。その上そうした地方部で生活していた人達のなかでは、自営業者やその家族の比率が高い。したがって、大都市部と比較し、無資産者の比率が低い。そういった人達は、とりあえずは預貯金取り崩しで当座が凌げる。これが大都市であったら、たちまちにして生活保護を受ける人口は一気に拡大した。つまり災害の第一撃が過ぎた後、被災者の生活破綻の進行度は一時的に緩和されている。その状態が、災害後半年を経過した現状である。
 貧困国であったら、被災者は食料を求めて災害の無かった地域に難民として押し寄せたであろう。またそうした動きの出来ない被災者の餓死が大発生したであろう。
 今日までの蓄積があったからこそ、そうした危機の進行は日本では緩やかに進んでいる。それは幸運であるとともに危機感の欠如の原因でもある。予想できることは、円の大暴落は、そうした危機を一気に推し進めるだろう。
 円が大暴落するかどうかは別にしても、緩やかであれ急激であれ、いわゆる景気と言う奴は悪化が進む。つまり日本経済の縮小が進む。復旧、復興などと気楽な言葉が飛び交っているが、東北経済の宿命は長期間にわたって災害前の状態を回復することは出来ないし、それは日本全体に波及する。そして、日本社会は、将来の人が「革命」と評価するような規模の変化に曝される。今の所そうした兆候に気がつかない日本社会は、危機の進行の緩やかさに抱かれて「ゆで蛙」状態にある。そうした社会の変化が急激に進む時、破滅的混乱がもたらされるのか、あるいはそれを見越した政治が生まれて、革命を先導できるのか。少なくとも現状はそこまでを予感させる。

 以上のような悲観的予想は、国内情況によって規定されているだけではない。間違いなく国際社会の危機と深く絡み合っている。
 日本工業が商品シェアを世界に伸ばした時、国内では日本人の器用さと勤勉さが自画自賛された。その時、造船は世界のトップにあり、日本の家電商品は世界を席捲し、車もシェアを伸ばした。工作機械にいたってはアメリカ国内では完全に駆逐された。日本企業の最初の進出先はアメリカであり、アメリカで貿易摩擦が起きるとヨーロッパに進出した。そのアメリカが不況に落ち込み、4分の1が貧困層と言われる。アメリカ、ヨーロッパの購買力が低下しただけではない。かっては日本の輸出対象であった韓国、台湾、中国が競争相手として立ちふさがっている。したがって、産業復興によって日本に経済成長がもたらされる条件はすでに無くなっているのである。
 かってイギリスが、そして今アメリカが陥っている国家の社会経済体質、産業資本主義ではなく金融資本主義国家というのが今の日本の姿である。
 アメリカと日本を比較してみよう。アメリカ社会の最大の雇用が金融ビジネスである。世界最大の農業雇用がある。衰えたとはいえ国内自動車産業と、進出した日本自動車産業の雇用がある。金融ビジネス社会での情報産業拡大とともに発達したIT産業雇用もある。それに付随したサービス業の雇用も多い。それでも失業率は10%であり、4分の1が貧困層である。
 日本は産業雇用が縮小し、いわゆる非正規雇用による賃金の縮小再分配で失業率増加が抑えられている。農業は、低賃金の外国人労働者雇用でようやく維持されている。日本の高所得層は、ごく少数の大企業や特殊企業の経営幹部やトップビジネスマン、公務員、年金受給者である。それらの高所得者や退職金を貯蓄した中間層の資産にたかる金融ビジネスマンが、チマチマとマネーを動かしている、というのが日本社会の経済の実態である。およそ新たな投資機会が生まれて景気が回復する条件など全く無い。
 野田政権は、日本の経済成長を見込める分野を、エネルギー、農業、医療と想定し、その分野の成長政策を政権の重要課題としている。この問題を少し検討してみよう。
 経済成長によって税収が増える、という現象がある。これは個人であれ企業であれ、納税主体の所得が増えるということである。先ずエネルギーから見てみよう。
 日本のエネルギーは圧倒的に輸入に頼っている。というよりエネルギー輸出によって日本は収益を得ることは出来ない。エネルギー産業は、輸入したエネルギーを企業や個人に転売して利益を上げている。エネルギー産業が成長し、納税額を増やすには、エネルギーの消費拡大が前提である。
資源が自給できるエネルギーは太陽光、風力、水力である。そのための機器生産は確かに成長分野である。それは国内需要だけでなく輸出も見込める。十分な競争力を持つ製品製造が出来た場合は確かに日本経済の成長要因となるが、円高、人件費高を受けて、そうした機器ですら海外生産、輸入商品となる可能性は高い。そうなると市場は国内に限定されてくる。
 農業については大規模経営化による競争力強化で、はたして食料自給率が上がるだろうか。大規模化に成功した農業企業は、確かに個別には経営が安定し納税額も増え、農業関係の政府の補助金支出は減るだろう。一方で農業人口は減少し、納税人口は減少する。耕作放棄地が減少し、また品質向上で輸出も増える。したがって日本財政のお荷物度は下がる。しかし基本的には納税主体の付け替えでしかなく、そのキャパシティーには限界がある。農業改革は取り組むべきだが、TPPなどにより失敗した場合、新たな財政負担要因となるリスクも想定しておく必要がある。
 医療については、高齢化社会の進行とともに医療費が拡大する。個別の医療機関にとっては確かに成長を見込める分野であるが、財政的にはむしろ圧迫要因である。財政方針そのものが福祉・医療関係費用削減を進めている情況で、成長を見込める分野とすること自体がおかしい。おそらく、最近話題になっている先端医療に関するシステムや機器輸出、総合検診ツアーなどでの中国からの来日などが想定されているのかもしれない。ただ医療機器産業について言えば、きわめて高度なハイテク機器であり、簡単にその生産が海外流出する可能性は低いが、反面、家電や自動車のような大量雇用を発生させる産業でもない。手堅いが大儲けできない、というのが実体である。
 そうした全体の政策がうまくいったとして、その販売は輸出ではなく内需である(たこの足食い)。日本の個人資産が企業に移り、そこから税金として国費となり、すこしでも国家の負債削減(負債増加の緩和)に結びつくかもしれない。しかしこの循環がもたらすものは、国内の格差の拡大だけである。成長なくして財政危機克服は不可能であることは事実である。だが、その成長をどのようにして達成していくのかについては、全く何も無いというのが日本の政治経済界、官民すべての実情である。
 いずれにしても、日本を一体として考えれば、その借金を働いて返す、つまり輸出によって削減する条件は極めて厳しい。預金を下ろして返すしかない情況である。その際、内需拡大という迂回策をとるか、徴税として直接穴埋めするかであり、どちらも必要である。

 多くの地方自治体が財政破綻に瀕し、職員数削減や事業縮小を行なっている中で、原発立地自治体だけが、政府や電力会社からの協力金や固定資産税を受け取り、贅沢な運営を続けている。雇用も確保され、したがって商業も潤う。まさに原発は金のなる木である。だからこそ福島原発事故後にもかかわらず、上関町町長選挙では原発推進派が勝利する。それが日本経済の実態である。原発立地とは、実は国家財政へのたかりである。
 福島では、原発立地自治体はこれまでに十分報酬を受けている。だが近隣自治体には、何の報酬も得られず、被害だけを受けた所が多い。原発推進自治体は、その問題についてどう対応しようとしているのか。周辺地域への賠償責任は、東電と国だけでなく、これまで甘い汁を吸ってきた立地自治体にもあると見るのが順当ではないだろうか。玄海原発のように基礎自治体と県知事がつるんで推進すれば、周辺は手の打ちようがないと言う事態をなんとかしなければならないだろう。

 さいごに
 今日のような日本の情況。つまり大災害によって日本社会が崩壊に瀕しているという情況は、自然災害が原因ではない。その原因は国家、政治にある。今は財政危機によって自然災害に対応できていない。一つの体制が終焉し、新たな体制が生まれるいわゆる革命は、前の政権、体制が自然や財政危機に対応できない結果起きるのである。つまりその条件が日本には、今まさに存在する。
 ただし今の日本には、そのことを認識する政治勢力は存在しない。一部革命主義者はあるのかもしれないが、過去の日本の革命主義者は、社会が混迷に陥ってからしか革命は起きないと考え、中には混迷を起すことが革命だと信じきっている「小児病患者」も存在する。混乱、混迷は、改革派、革命派の敗北の結果発生する事態であり、大混乱なき社会変革こそが有能なリーダーの手腕によるものである。

 ところで、野田内閣が提唱した増税路線は政策としては非常に難しいことは歴史が証明している。戦後政治の中では、増税に成功した政権は必ず退陣に追い込まれた。成功せず、唱えただけでも選挙で大敗北した。おそらく民主主義での増税の可能性は数%もない。しかし絶対無いわけではない。
 第2次世界大戦に向う軍部ファシストの暴力支配国家日本でさえ、増税による戦費調達は困難で、貴金属供出の大衆運動と厚生年金制度制定に依存した。そういう難事業でありながら、今日本の世論調査では、復興増税を認める意見は50%を超えている。まさに奇跡なのである。これはおそらく民意による、民主的手続きによる増税の最後の機会であろう。この機会をうまく捉えれば、日本の民主主義は成長し、社会変革のソフトランディングの成功する可能性が発生するかもしれない。しかしそうでなければ、国家の資金調達は無計画な借金拡大か強権的、暴力的収奪となり、民主主義は大幅に制限されることになるだろう。

 

2011.6.21レポート

 東北大地震津波災害と福島原発事故に、日本はどのように対応すべきか(岩内レポートより)


     序
 各地の放射線量について地方自治体が独自に測定を始めた。理由は住民に安心してもらう為であるという。
 テレビなどの解説者は、国がやるべきだという。だがこれまでの国の発表は信頼を失ってしまっている。自治体の発表にしても、最初は地上10M以上で測定されており、市民や環境団体などが地表近くで測定したら全く違う結果が出た。だから自治体に対しても不信感が拡大し、それに対して自治体が測定を始めたわけである。だがそうなれば、自治体の測定も信用ならない、ということになる。そこで自ら測定する市民が増えている。
 ところがこの測定は、測定方法によって結果に相当のバラツキが出るから、個人での測定は好ましくないとも言う。そのうえ測定器に粗悪品もあるという。国や自治体の測定が信用できないから始まった個人測定だが、機器も結果も信用できない、という所に行き着いた。
 一方事故原発はどうなっているのか。冷やし続けなければいけない。ところがこのままでは汚染水が増え続けて環境にあふれ出る。したがって汚染水を増やさない為に循環装置を作ったが、これがなかなかうまく行かない。そのうえ、東電が最初認めなかったメルトダウンを、一ヶ月を過ぎて認めた。このことで、日本原子力学界の当初の安全基準は完全に吹き飛んだ。つまり原発は、その安全性を確保する為には、建設時からメルトダウンを想定する必要が生じた。
 ところがメルトダウンどころか、圧力容器の底が抜け、格納容器の底に融けた燃料が溜まる、メルトスルーが起きていることを認めた。安全基準のハードルはさらに上がった。そして一部専門家の間では、メルトスルーどころか、建屋の基礎であるコンクリートを貫通して地層にまで融けた核燃料が達しているという(チャイナシンドローム)見解が示されている。そうすれば、当然放射能が地下水に溶け出し、地下水を通して汚染が広がるということになる。とすれば、安全な原発建設は、地下水脈を遮断し、岩盤まで達する隔壁を築いて、その中に建設しなければならないという途方もない安全基準が必要となる。そしてその基準を達成した原発は一機もない。にもかかわらず政府は、安全が確認されたら運転を再開するという立場をとっている。
 測定の曖昧さ。安全基準のいい加減さ。そのうえ浜岡原発運転停止を要請した菅総理の、他の原発の運転停止は求めないという、原発の安全に対する無知と無責任さ。もはや菅は総理大臣としての資格は無い。だが、本人が辞めるといわなければ辞めさせられない現実。何時辞めるか、どうなったら辞めるか、など、菅おろしは、本文中にも書いているが、完全にシュミレーションゲームになってしまっている。そして野党は、あるいは与党内部でも、菅がやめなければ前に進めないと言っている。ゲームにはまり込んだ政治家達は、ゲームが終わらなければ動けない、というわけである。それは実は、自分が何もしないことの言い訳にすぎない。
ゲームだから、誰かが「下りた」といえば済むことだが、頭に血が上った連中にはそれがわからない。特に自民党は、国会延長にすら反対するとして、完全に攻守が入れ替わり、自らが「守」に変わっていることすら理解できていない。
 菅は、自ら辞めるといわない限り、常識的には民主党代表選まで居座れる。もし民主党代表選で敗れても、国会が延長され続ける限り、理論的には総理の座に居座れる。かって少数派出身総理大臣は、三木武夫にしても村山富市にしても、いくつかの勢力のバランスシートに乗っていたが、与党も野党も世論も支持しない、全く孤立して総理の座に座り続けるという、そしてそれを誰も抑止できないという、菅 直人の福島原発状態が作り出されようとしている。

? 前提
 何事にも前提がある。もし・・・だったら、と言うことは前提にはならない。したがって前提とは、具体的な現状である。この未曾有の危機に対して日本社会がどう対応できるかを考える時、重要な前提がいくつかある。もちろん注釈をつけておけば、その前提条件全てが、国際関係と絡み合っており、日本はこうだというだけでは済まされない。しかし論理を組み立てる上では、国際関係は一旦横に置いておかないと、テーマが膨らみすぎ収拾がつかなくなる。そのことを前提として、つまり前提の前提として論を進める。

前提 1
 災害復興の主体であるべき日本国家は巨大な負債を抱えている。国家は数百億円の予備費を持っているが、災害復旧に必要な費用はその百倍以上に達すると見込まれている。
 派生的な問題として、原発事故対応がある。事故の責任は東京電力にあり、本来その被害に対する賠償は東京電力が負うべきものである。だが東京電力の資産、会社そのものを売却しても、賠償はおろか、事故終息の為の資金すら不足することは明らかである。したがって、原発推進政策を取ってきた、かつ監督してきた日本政府もまた、事故終息と賠償に対する負担を負わざるを得ない。
 さらに近年日本経済は不況の真っ只中にある。仮定を前提とした議論に、「景気が良くなったら増税する」、ということが国会や政治家の中で語られている。・・たらでなく、景気が悪ければ悪い中で対応せざるを得ないのであり、それをすることこそが政治そのものである。つまりその一点を取っても、日本政府、政治家は全く政治を行なっていない。このことから次の前提が作り出されている。

前提 2
 ねじれ国会。衆議院で議決されたことが参議院で否決される。したがって、国会での政策を決定に長い時間がかかる。それは、今回のような非常時に政治が全く機能しない、という現実を生み出している。
 野党は「与党が出してくる提案がコロコロ変わり、審議に応じられない」という。そのうえ「与党、つまり民主党内部が一本化されておらず、出される提案が信用できないから・・・」という。問題はその民主党の現状。もはや民主党は分解してしまっているという前提がある。この前提を避けては、何も解決されない。野党は、与党が出してきた提案を審議することで災害に対応するという態度を取っているが、その与党が、形はともかく、実質的には存在しないのだから、その対応もなんら意味を成さない。与党不在、内閣不信任案否決、と言う事態を受けて野党はどう動くべきかを思案すべきだが、あいも変わらず与党に対して「出せだせ!」と無いものねだりをしている。というより単に国政の足を引っ張っている。
 このような状態で野党勢力はどう行動すべきかについては後述する。ただしそれは、災害と原発事故の現状と言う根本の前提から演繹されることである。

前提 3
 政治がこのまま空廻りするなら、被災者達はうち捨てられてしまう。つまり棄民である。そしてこの国はもう一つの棄民を抱えている。それは沖縄である。民主党が政権奪取をした大きな柱の一つが、この沖縄と言う棄民対策であった。だがそれは見事に失敗した。この一事だけでも、民主党政権が失格とされる条件を満たしている。なお民主党が政権を維持しているのは、ただ、野党に、民主党に代わる資格が無いからである。
 沖縄問題は、非常時だから我慢してくれ!で済む問題ではない。ただしこの問題は、直接国際問題であるから、今回は敢て言及しない。それは、沖縄問題を無視するということではないから了解していただきたい。

前提 4
 まさに災害と原発事故の現状である。ただし当然のことながらひっくるめてかたることは出来ない。原発事故に関しては、決して独力で対処できないにしても、たとえば岩手県地域の被害に対しては東京電力には救援の義務は無いからである。
 
 この度の災害の大きな特徴は、マニュアルでは対応できなかった、ということである。そのことを「想定を超えた」という言葉で表現するが、それだけでは不十分である。あらゆる側面から災害とマニュアルについて検証し、将来に生かすことが必要なことは言うまでも無い。
マニュアルでは対応できなかったいくつかの例を示しておく。
大川小学校では、津波が襲ってきたのは地震から4、50分後であった。にもかかわらず生徒の70%が死亡、行方不明となり、現場に居た教師で生き残ったのは1人であった。当然、何故そうなったか今後検証され、行政ないし教育委員会に対して慰謝料が請求されることになるであろう。つまりそうした事態をさけるために教師達は全力を尽くしていないという過失があるし、その根底にマニュアルがあるからである。
マニュアルでは、何かの事件が発生した時、体育館や校庭に生徒全員を集合させ、先ず被害の有無を点検することになっている。この場合、体育館では上からものが落下する可能性があるから校庭に集合したという。ここまでは間違っていない。
その後教師達は対応を話し合っていた間に、見張りに立っていた教頭が津波襲来を発見し校庭に走った。そこから避難が始まった。その間30分。
子供を迎えに着た保護者の一人は、車のラジオか何かで津波の情報を知り、教師に「早く避難すべきだ」と訴えたが、教師は「おかあさん、落ち着いてください」と、まるで保護者がパニックに陥っていると言わんばかりの対応であったという。
おそらく教師達がそのように落ち着いて対応したのは、行政が発行するハザードマップに、大川小学校が浸水地域に含まれて居なかったからであろう。その意味では、対応に失敗した教師達を一方的に責めるわけにはいかない。
古い諺に「津波の時は、他人にかまわず逃げろ!」というのがあるそうだ。それこそが歴史の教訓であり、究極のマニュアルであることを今回の災害は証明した。
防災放送で避難を訴えかけ続けて亡くなった女性職員。半鐘を鳴らし続けてなくなった消防団員。消防車で避難を呼びかけて廻り津波に流された消防署員。地域の警戒や避難呼びかけの途中で殉職した多くの警察官。それらの尊い犠牲は今後どのように語り継がれるのだろうか。あるいは自己を犠牲にして職務を全うした人達の美談として語り継がれるであろう。もちろん筆者もそれに反対はしない。しかし究極のマニュアルに照らした時、違和感を感じるのも事実である。
女性の最後の放送を聞くと、「大津波の警報が出ています(あるいは 大津波が来ています)。直ちに避難してください」と最後まで冷静に放送されている。おそらく防災無線や消防車の広報も同じ調子で行なわれたのであろう。ここは「逃げろ!にげろ!」の絶叫のほうが効果が高かったはずである。場合によってはパニックになったほうが助かる場合もある。これは、原発事故に対し、政府発表が、避難を完全にするのでなく、パニックを起さないことが主要目的とされたことに通じる。本末転倒のマニュアルが多すぎる。

その後の自衛隊出動、消防、警察、海上保安庁などののレスキュー活動などについては議論の余地が無く見事なものであった。また海外からの救助活動についても、賞賛に値する。米軍の活動も正しく評価すべきである。

救援活動については多くの問題が明らかになった。イスラエルからの医療救援などの受け入れについて、政府(厚生労働省)の対応は完全に間違っている。非常時の対応と認識していないとしか思われない。実際には米軍は艦艇を出動させ、救助活動や救出した人の医療救護を行い、避難所には食料や水の供給を行なった。救援を必用としているのは被災者であり、救援しようとしているのはイスラエルの医療チームである。無関係な場所にいる厚労省役人がその行動を妨害するのはとんでもない越権行為である。
ハイチ地震の時、米軍は病院船を沖合いに停泊させ、負傷者の手当てを行なった。それに対しベネズエラのチャべス大統領は、アメリカがハイチを侵略しようとしていると非難した。ある種の人達はこういう発想をするが、重要なのはどのような思想の持ち主が支配するかではなく、住民に対して誰が必要な手を差し伸べるかである。イスラエルの医師が日本国内で医療行為を行なうことが問題ではなく、もしそのことでイスラエル医療救援隊が法外な費用を請求したとすれば、あるいはこの際日本人を抹殺しようとすれば問題なのであって、善意の救援であれば、超法規措置によって受け入れるのが、血の通った行政である。
被災者は、住まいを失っただけではない。生活する術、農地や漁船、職場を失ったのである。
避難所は何とか確保されても、食料、水、衣料品、お金が無かった。不十分とはいえ、食料、水、衣料品、そして医療サービスは全国から提供された。問題はお金である。
金融機関は、通帳が無くても銀行の記録を下に預金引き出しに対応した。しかし義援金については3ヶ月過ぎても15%しか支給されていない。これが新たな問題を生んでいる。
義援金を担保に、闇金融業者が入り込んで、困った被災者をカモにし始めている。彼らは生活保護費を担保に、受給者からお金を吸い上げる貧困商法の実行者である。何千億円かの義援金が配られない為にやみ金業者が被災者を食い物にしている。それを許しているのが、一向に対応を進めない政府、行政である。ねじれ国会があるとはいえ、この対応の遅れの責任は内閣にある。菅総理不信任の理由は時間の経過にともない増え続けている。

住む所も、食料も、仕事も全て奪われた約20万人以上の人が居る。(3ヶ月後の実態として死者・行方不明約2万3千人。避難所7万人。自宅避難人数不明。被災地以外に転居した人数12万人)これだけのことが起きたらどうなるか想像してみよう。
世界からは、略奪も起きず、整然と避難所生活を送る日本人に賞賛の声が高い。世界の人はこのような時、略奪や暴動など、いわゆる火事場ドロボー騒ぎになるのが普通だと思っている。
この事態を日本人の美徳としてそのことに誇りを持つことは、確かに無秩序状態に陥ることへの抑止効果はある。だがそれは絶対ではない。そうした騒ぎにならなかった根拠が存在する。
情報はリアルタイムで全国、全世界に流された。自衛隊も各種レスキューも即時に救援に動いた。義援金や義捐物資の集荷には手間取ったが、全国の自治体が備蓄している救援物資は、できる限りの速さで現地に送られた。例えば高速道路の通行止めや渋滞を予想した大阪市は、高速道を走れない(性能的に)市営バス車両を使って、一般道路経由で物資を運んだ。こうした工夫と努力で、必ず救援、支援の手が差し伸べられると被災者は信じているからこそ、日本では騒ぎは起きない。それは、1945年以後、日本が戦争をしていない平和な社会だからこその結果である。
そうでない前例もある。日米戦争中に起きた福井大地震は、戦争中であるために報道管制が敷かれ、全国民がその災害を知ったのは戦後である。したがってそこで何が起きたかは十分に検証されていない。ただ、報道管制のため軍隊が治安維持に当たったのであり、そのために騒ぎは抑えられたはずである。関東大震災では朝鮮人虐殺すら起きている。
もし日本が戦争中であったり、あるいは無政府状態であったら、略奪や暴動は起きたであろう。闇商人がはいりこみ、被災地での物価は高騰し、正に今起こらんとしている闇金融業者の草刈場となってしまうであろう。一旦そうなってしまえば、治安回復は暴力的にしか行なえない。一般的には外出禁止令や戒厳令が発動されることになる。そしてそうなる条件は、いまだ完全には払拭されては居ない。
住むところはやがて仮設住宅が完成すれば、人々は避難所から、とりあえずゆっくりと休息できる場所へと移ることができる。だが今生きる術、毎日の食料など生活必需品を購入するための収入を得る機会が失われている。漁場が荒れ、農地が荒れ、工場が流失している。貯金のあった人はそれでもしばらくは生きていける。無かった人は、仕事を失えば、義援金生活保護だけが頼りである。義援金は一時凌ぎである。生活保護は、ただ生きていることを保障するだけで、生活再建をもたらすものではない。
この3ヶ月。死者や行方不明の家族を悼み、必死で生きてきた被災者は、自らの生活再建の困難さに直面し、多くの人が未来に絶望するであろう。自殺者は年間ベースで3万5千名を越えてくると思われる。1951年以来200万人を越えたとされる生活保護受給者は、東北だけでなく、災害波及倒産と派遣社員雇い止めで、雇用保険の切れる10ヵ月後、来年1月には300万人を越える可能性が高い。
そのような社会の下部構造の状態は、大恐慌以後の世界不況と冷害による飢饉で娘を売りに出した東北地方の出身者を中心とした青年将校によるクーデター、2・26事件の時と極めて近い。上部構造では、政治中枢の体たらく、無策も当時と同じである。違うのは日本社会が裕福であること、軍隊に対するシビリアンコントロールが保たれていること、あえて言えば、田母神や石原慎太郎、橋下 徹のような、市民を見下した、支配してやらなければ市民は生きる力が無いと思い上がった連中が自衛隊内に少ないということであろう。

? どのような対応が必要か
 言うまでも無いが、義援金生活保護では生活再建はできない。被災者が経済的に自立する為の工程設計から始めるのが妥当である。
 農業者は営農が出来る環境の復旧。漁業者は漁船の確保と漁場の環境回復。一般労働者にとっては工場再建が必要である。それらが達成されれば、それに付随する行政サービスや商業が回復し、地域経済の自立が達成される。その資金は、事業再建には金融機関からの融資が不可欠だが、個人レベルでは雇用が確保され、賃金収入が得られるようになることである。
 漁業に関しては、全国の漁業者から、使用していない中古漁船などが無償で提供されている。火事場ドロボー的に、東北の漁業者が操業できなくなったのをいいことに一儲けしようとせず、被災した漁業者を助けるその行為こそ美しい。外国からの日本人賞賛は少し的外れだが、漁業者のこの行動は、難破したときに身の危険を顧みずに救助に当たる海の民の本性を見る気がするし、だからこそそのように美しい人々を支援しなければならない。
そして、だからこそ3ヶ月過ぎてなお有効な政策を打ち出せない国会、内閣は打倒されなければならない。
 クーデターを起こす主体がない。国会を取り囲んで辞任を要求する大衆運動がない。ただそれだけの条件で居座る菅総理を、いち早く辞任に追い込む知恵を、野党はおろか与党ですら考え付かないなら、日本は早晩無政府状態におちいるであろう。
 前提は次のように膨らむ。すでに自殺者、生活保護受給者の増加については述べた。パナソニックは、おそらくサンヨーとの合併で生じた過剰雇用の清算も加えてのことと思われるが、1万5000人の人員削減を発表している。これが下請けに波及すると、さらに5000人ぐらいは上乗せされる。
 トヨタでは副社長が国内生産台数削減を提起した。円高。不況による国内需要の低迷。原発停止による電力の不安定化などが理由と思われる。その上、もはや日本の製造業はグローバル企業となっている。松下幸之助が企業理念を「ものづくりによる社会貢献」と言ったときの社会とは日本社会であった。しかし今社会とは日本に限らない。したがって各業種のトップ企業、パナソニックトヨタのこうした対応は、企業として当然である。だが日本社会に与える影響は大きい。
 災害でもたらされた日本社会の経済スケールの縮小と、従来からの不況、そして相乗されてさらに工場の海外流出が日本社会に大きくのしかかる。

 以上が今日まで顕在化した現状である。だがそうした現状とそれに対する対策がもたらす新たな現状は、おそらく日本社会の構成員は余り気がついていない。たとえば、日本の財政状態に対する国際的評価が、ギリシャなどと同じになったら円は暴落し、自給率40%の食料品価格は暴騰し、津波がこなくても多くの餓死者が出る事態になりかねない。とはいえ日本には埼玉県に匹敵する耕作放棄地があり、それが耕作されるようになるので、自給率回復と言う形でバランスが回復するチャンスは残されているのだが。

政策その1
 瓦礫撤去にかかる費用は全額国家が負担する、と菅総理は表明した。しかし実際は作業は進まず、財政力のある自治体は自力で撤去事業を展開しているが、財政力の無い自治体は放置されている。
 ある水産加工業者は、「必ず再建する」と言う思いで、一切解雇を行なわず、政府の雇用調整助成金を受けている。ところが、この助成金を受けている従業員は、厚労省の指定する条件である各種講習を受けており、事業所再建の為の工場跡地の瓦礫撤去などはボランティアが行なっている。
 瓦礫撤去費用を全額国費で賄うというなら、撤去を行なう事業者の形態を制限せず、自治体が直接行なう、地元や全国の土建業者、そしてかってこの地で事業を営んでいた経営者が、たとえ自社工場跡地の瓦礫撤去を、自社社員によって行なう場合の人件費も、国が負担する、と言う形で雇用を確保すべきである。
 この度の災害で発生した瓦礫の処分だけでも、ボランティアで解決出来る規模をはるかに超えている。瓦礫撤去については、最大限地元失業者や耕作地を失った農家、あるいは船を失った漁業者を雇用して行なう。また全国の失業者を雇用しておこなう。ゼネコンには瓦礫撤去後の整地作業にシフトしていく。それも国費で行なう。
 そのようにして個人から企業まで、当面の生活費と自立の為の資金作りの機会を提供していく。
 仙石副官房長官は、瓦礫撤去は全て国の直轄事業として行なうべきだ、と述べたが、それは以上のようなことであり、国土交通省が直接行なう、ということではない。そして、このことの法整備と財政措置を一刻も早く行なわない限り、復旧、復興の見通しは全くえられない。とりあえずしなければならないのはこのことである。

政策その2
 民主党のマニュフェスト見直し、あるいは一時停止は当然である。全力を東北の復旧復興に注がないかぎり、日本経済は底なし沼に引きずり込まれる。一切の政治休戦をしてでも(沖縄問題を除いて)東北の復旧復興に取り組むべきである。
 高速道路無料化は6月19日をもって廃止された。子供手当てについては見直し作業が進んでいるが、所得制限について「子育ては社会がやるべきだ」と言う理念が達成できないとして反対意見がある。問題は優先順位であり、国家財政破綻が、災害によって見え出した今、幻想にしがみつくべきでない。
 財政問題の中心は、復興特別債と増税として進んでいる。基本的方向として正しい。
 増税には反対意見も多い。
 みんなの党は、増税しなくても特別費を取り崩すことで可能だとして反対する。
 国民新党は、景気を悪化させるとして反対する。
 民主党内部でも増税反対派が多数である。おそらく次の選挙が怖いのだろうが心配する必要はない。次の選挙で民主党議席を半分以下に減らすであろうから、どうせ半分死にかけた議員はがたがた言うな!逆に、増税しても、確実な政策を実行すれば支持されるのである。
 消費増税には、共産党社民党も反対する。

 間違いなく国は資金不足に陥る。どのような政策も、資金問題とセットでしか実行できない。そこで財政政策が核心となる。
 どさくさ紛れの増税に反対するという意見もあるが、今消費増税止む無しという世論調査での意識は40数%に上っている。財界も企業減税要求を引っ込めている。
 国民新党の「景気を悪化させる。景気が良くなれば税収は上がるので増税の必要はない」という意見の問題点は次のことである。
 どうやれば景気は良くなるのか?財界は企業減税が景気を良くすると主張してきた。それを引っ込めたのは、復旧、復興には景気がよくなるのを待ってはおれない、という認識だからである。そして復旧、復興事業費は現状では全く不足している。その不足金をどうするかということが問題なのである。それを景気回復を待つと言うのではピンボケもはなはだしい。
 みんなの党は一見理路整然と主張する。だがいったい復旧、復興作業がどのくらいの期間と費用を必要とすると考えているのか。その上で破綻しかけた国家財政をさらに危機に陥れなくて済むと思っているのか。ドサクサにまぎれてでなく、継続的に資金供給を続けていく方策が求められているのである。特別費からの転用は当然である。その上で増税必用なのであって、これも議論がズレている。つまり増税に反対する政治家達は、増税を主張すれば選挙に落選する、という強迫観念に囚われ増税に反対しているに過ぎない。災害後の世論調査増税に一定の理解を示している。それはこの国の民が、自分さえ良ければよい、という考え方ではなく、社会的必用に対しては負担に応じる気持があることを示している。ただ往々にして増税を主張すれば選挙で不利になるのは、税の使い方に対する不信、つまり政治家に対する信用が無いからである。この政治家なら裏切らない。安心して任せられると思えば、その政治家の無理な要求でも聞き入れる姿勢を、この国の選挙民は持っている。

 当然、無駄の廃止、公務員人件費の削減、議員歳費削減、埋蔵金の吐き出しなど行なったうえで、国債発行は避けては通れない。そして国債発行は財政赤字をさらに拡大すると言う理由で反対する意見も多い。だからこそ、国債発行と増税はセットなのである。
 
 日本が大災害に見舞われ、原発事故ではまだ先が見えないのに、何故円が上がったのか。その理由は、復旧のために、日本政府、日本企業は大量の円を必要とする、という思惑が世界の投機筋を円買いに走らせた。実際にそうした円買いが進めば、投機筋はボロ儲けをする。そして、政府や企業によって円が市場に吐き出されることで円は暴落する。政府も企業も、買った円よりはるかに安い円で必要な物資を高い値段で購入することになる。
 今円高で、円評価での米国債価格は大幅に下がっている。増税もせず、つまり景気悪化を避け、国債も発行せず、財政赤字を増やさず、資金を確保する方法として、損を覚悟で米国債を売るべきだという意見がある。そうした場合どうなるか。
 米国債は下がる。それは米国経済を揺さぶり、危機の輸出となる。この際アメリカの事情は無視したとしても、円買いであることに変わりは無い。つまり円高に作用し、日本企業の輸出環境は一層悪化し、ひいては景気悪化を促進する。むしろ、確実に来るであろう円価格低下で米国債の資産価値は必ず近い将来アップする。それが日本の財政赤字を圧縮する。米国債価格下落により、さらに財政赤字を加速させるより、円安を待つほうが得策である。
 財政の裏づけなき国債発行は日本の信用を低下させる。ただし日本国債の国際流通量は少なく、世界経済への悪影響は少ないと言う意見もある。とはいえ日本経済への不安は増大し、円価格が低下する。これは貿易摩擦を生み、日本への不満が高まる。大災害のため仕方がないとして少々は我慢してもらうとしても、大幅な円安は食料価格暴騰につながる。したがって国債発行とバランスするのが増税である。
 増税で資金手当てをするには最低で1年かかる。したがって増税するにしても、緊急に資金確保をするためには国債発行は避けられない。
 一方、増税だけを行なえばどうなるか。復興、復旧への資金手当てが確実に遅れる。その上、増税を実施した日本政府への国際金融界の信用は高まり、円高が進行する。そしてそれは、保有国債評価額を低下させ、財政赤字を膨らませる。つまり税収増加前に円高による財政赤字増加が進むのである。円安、その分の財政赤字圧縮、その後税収増加の順番で進むのが理想的といえよう。

政策その3
 財政危機にもかかわらず何故円高なのか。災害以後の事情は前に述べた。それ以前からの円高の理由は、国および自治体の負債と個人金融資産の差額が400兆円。つまり日本社会の貯蓄総量は400兆円。それが円買いの根拠とされている。
 それはどういうことか。一家の家計へのたとえ話で説明しよう。
 電気代、水道代、固定資産税などが払えないから借金して払っている。ところが収入を持ってくる主も、奥さんも、子供達もそれぞれへそくりを持っている。主は、もしくは奥さんは、へそくりが欲しいが、自分だけへそくりするのは気が引けるから皆にへそくり資金を与える。その結果家計の必要経費が不足している。という状態である。皆のへそくりを足し算したら家計の借金より多い。だが一人一人は借金返済のために自分のへそくりを拠出したがらない。
 国や自治体が無駄遣いしているのは事実である。だが無駄遣いを削れば1000兆円の負債がやがて解消される可能性はないことが、仕分けの結果明らかになった。見方を変えれば、仕分けによる埋蔵金の発掘で財政赤字を少しでも減らせると考えた民主党の財政基本政策は失敗した。その時点で実は民主党はマニュフェストを根本的に見直さざるを得なかった。しかしそうなれば自民党と同じになってしまうのでマミュフェストに拘った。その結果、現実対応を迫られる政権担当者と民主党との乖離が進み、民主党は、政権党として形骸化してしまった。
 個人金融資産のうち1000兆円は、実は家計に必要な資金である。それをへそ食ってしまった。その結果家計に1000兆円の穴が空いてしまった。だから本来個人金融資産のうち1000兆円は社会に還元されるべきものである。そのうまい方法があれば、日本の財政危機も災害復旧も、財政問題としては一気に解決する。
 1億円以上の資産家は100万人ぐらい居るといわれている。だが法治国家である日本では、彼らのへそくりを強制的に取上げることは出来ない。したがって税金と言うことで時間をかけて拠出してもらう以外に方法はない。だが富裕者は、政治家に献金し、彼らからの徴税強化を阻む。そのくせ脱税などの悪事を働くのも富裕者である。なぜなら、貧乏人は税金も払えないので脱税したくても出来ない。
 1000兆円の個人金融資産から、どのようにして資金を引き出すのか。強権によって簒奪することは出来ない。時間はかかるが相続税率を上げるしかない。だがそれでは時間がかかりすぎる。
 今は廃止されたが、相続時清算課税制度と言うことで、マイホーム建築資金として生前に遺産相続する制度が、景気対策として導入された時期があった。それは、個人資産を直接国家財政に還流させることは無かったが、2005年ごろミニ不動産ブームを生み出した。家が建てば家電製品なども売れる。それに付随した税収が増加する。それでもバブル崩壊後の失われた10年を完全に回復することは出来なかった。そしてリーマンショックで再び不況は深刻化した。つまり、金融資産として凍結されていた資金が市場に引き出され、僅かながら景気は上向いたが、その間の景気刺激策で膨らんだ財政赤字を埋めるには至らなかった。が、死んで相続されるまで個人資産が動き出すのを待つのでなく、早く市場に引っ張り出すことの効果は示された。
 今新たに考えられるのは、資産家に対して、新たに発行される国債を引き受けさせることである。日銀や金融機関は今まで十分に国債を引き受け、それが収益を圧迫している。さらに引き受ければ、日本国債の資産価値が下がり、ますます経営を圧迫する。そこで個人資産家を国債引受人にするのが望ましい。ただし利回りの低下した国債を資産家は引き受けたがらない。高利回りの金融商品を資産家は買い求める。少々の高い利率を設定しても、個人資産家が日本国債を買い求めるとは考えにくい。
 そこで考え出されたのが無利子国債である。文字通り利息がつかない国債は、発行しても利子負担がない分財政負担は軽減される。そのようなものが何故資産家に買われるのか?実は無利子国債での遺産相続には相続税を課さない、ということになる。土地や金融商品で資産を残せば、その相続評価金額によっては厖大な相続税が課せられる。しかしそれが免除されるとなれば、強欲な資産家は飛びつくはずである。しかも相続のために購入するのであるから、早期に換金する可能性も少ない。したがって、無利子国債の評価額低下は抑制される。
 無利子国債での発行者のリスクは、やがて国家財源に組み込まれるはずだった相続税収入が減少する。だがいずれ返済しなければならないが、国債所有者に現金化の必要が生じない限り、買い替えで継続し、償還時期はかなり先送りされる。
 利点は、国がすばやく現金を手にすることが出来る。
 富裕者と貧困者との格差が固定化されるという問題はあるが、富裕者がその資産を金融市場で運用し続けるより、その金が実体市場で循環することを考えれば、格差の固定化は重要な問題ではない。

 今検討されている税制改革の中で、相続税の強化と所得税の見直しが進められている。ここはこれで我慢しよう。問題は消費税増税である。消費税増税には、共産党社民党が反対している。理由は逆進性である。もちろん逆進性緩和の方法はある。食料品の非課税もしくは税率軽減は、貧困者の生活困窮を緩和する。むしろ日本の消費税でそうした措置が取られていないほうが不思議である。官僚や政治家が、税制の複雑化を嫌っているのか、それとも彼らは皆金持ちで、貧乏人の納税額が少ないことに不満を抱いているのか?
 IMFは、日本財政赤字解消のために、5年間限定で消費税を15%に引き上げるべきだと提言した。これは、現在の景気や為替相場を前提とし、災害復旧を加味した試算の一つの回答である。実際には円安が進めば条件は変わるので、固定的にとらえる必要はない。
 消費税は上げるべきである。率は5%。したがって消費税は10%にする。ただし、岩手、宮城、福島3県は据え置く。しかもその3県に限って5%の消費税全額を地方税とする。
 復旧、復興、再建事業に国費を大量投入することは当然である。そのことでこの地域に雇用が生まれ建築ブームが起きる。建築ブームは他の産業を巻き込む。復興特需、それだけでも十分景気浮揚に結びつく。
 だが、急速なこの地方の復興を、日本経済の成長、つまり景気回復につなげるには、東北への投資拡大が必要である。今言われている特区としてのこの消費税率の格差が重要な意味を持つ。それは被災地住民の負担軽減だけではない。特に成長著しい通信販売企業は、こぞって事業所をこの地域に移すはずである。九州なまりのジャパネット高田の宣伝がズーズー弁に代わる。これこそが被災地復興を最も早く進める方法である。
 食料品については消費税は据え置く。従来の税制で言えば、食料品の消費税を引き下げるかゼロにすべきだが、非常事態であるし、5%で曲りなりに維持されてきた。したがって現段階で引き下げる必要はない。まやかし的ではあるが、他の消費税が上がることで、相対的に食料品の税率は下がる。経済は元来相対的であって絶対的ではない。したがって全く問題は無い。
 ただし高級レストランなどの、一人一食1万円を超えるような食事にかける税率は引き上げる方法で検討されるべきである。非常時であれば、富裕者はそれに応じるべきである。さらに言えば、食材や税金の値上がりで売り上げが低下し、経営難に陥るのは低価格の大衆外食産業である。高級レストランで食事を取る連中にとって、一食1000円2000円の値上がりなど全く気にも留めないレベルである。
 平時に置いて増税を行なった総理大臣は、ことごとく引き換えにその地位を失っている。一方戦時に置いては、増税は納税者の情況を無視して行なわれた。もしくは増税に代わる収奪が行なわれてきた。どさくさ紛れに増税を行なうのは、決して批判されることではない。

 最後に税制問題について一言。経済成長が続く時代は、公共サービスの拡充を行ないながらも減税が可能であった。しかし低成長時代になり、しかも公共サービスは高度化している。そのなかで減税を求めるのは間違いである。増税に応じられるような所得の保証、つまり雇用の確保こそが今の政治の中心課題である。

? 形骸化した政府下の社会で何が出来るか
 一刻も早い菅政権打倒。それが出来ない限り何も前に進まない情況に陥っている。それでも進まなければならない。菅内閣打倒と同時に災害復興事業を進める必要がある。上に述べた政策が実現できない間も、前に進む必要がある。

菅内閣打倒の方法・・・・方法は無限にある。いくつか代表的な方法について検討してみよう。
1 暗殺
 ある意味で最も手っ取り早い。しかし条件があるしリスクが大きい。
 条件としては対立が武力衝突寸前であること。つまり対立する両派の勢力が拮抗していること。少なくとも議会政党にとって自らの立場を放棄するリスクを取ってまでこの手段を採用する可能性は100%無い。
 元来議会政治を否定する勢力、かって浅沼稲二郎を殺害した、あるいは川上丈太郎や三木武夫を襲ったような戦前のテロリズムを少しでも踏襲する勢力は、右も左も日本からは消滅していると思われる。
 可能性としては、沖縄棄民と、今正に棄民化途上にある東北3県、特に福島原発棄民には条件がある。彼らが本当に絶望に陥った時、自殺かテロか、という選択に追い込まれることを止めることは出来ない。しかし今の所、その条件は成熟していない。
 何より暗殺がもたらす後世へのリスクは高すぎる。腐りきっているとはいえ日本の民主主義がもたらした生活の平穏は失われる。したがって、普通の政治対立、つまり階級対立の中で暗殺思想が生まれるとは考えられない。この間、閉塞感、疎外感から生まれたテロは、全て弱者に向けられ、ガス抜きとして作用している。
 政治や思想というジャンルからテロリストが生まれるとしたら、先に述べた田母神や石原慎太郎などのエリート主義思想が増幅されたときであろう。
2 病気に追い込む
 不信任案に失敗し、党内でも鳩山の狂言回しで菅を引きずり下ろせなかった国会に有効な手段はない。それを見越して菅は開き直っている。あとは与野党議員が「菅辞めろ!」の大合唱。マスコミもこぞって菅の失政、なにより災害復興の遅れを毎日一面で流す。オール野党で、全国各地で反菅集会やデモを行なう。最後には主都大集会で菅の神経を痛めつける。菅がそれに屈服するというより、側近にあきらめさせることに効果がある。
3 無視
 実は菅はこのところ記者会見を減らし、被災地回りを増やしている。この男なかなかやる。被災地での支持をふやし「そらみろ!」と逆襲するつもりである。彼は民主党代表の任期いっぱいどころか、その次もやる気でいる。そして記者会見を減らしている。
そのような情況では、 議会での質問を総理にしない。予算委員会でも本会議でも、質問は全て総理以外に行い、総理が発言しても無視する。マスコミも総理発言を掲載せず、記者会見も要求しない。総理の側から記者会見をすると言ってきても、カメラを入れない。その上で世論は、各大臣に総理の意見を聞き入れないように圧力をかける。もし菅が他の大臣を罷免する事態に追い込めば大成功である。

災害復興事業の進め方
 以上のように、形骸化した菅内閣打倒の取り組みは遊びである。政府が具体的な取り組みを進められない中、現場ではいろいろの取り組みが始まっている。それを拾い上げ、それを支援する大衆運動を作り上げることが必要である。野党は、形骸化した政府の東京でのマスコミに顔を曝す目的だけのパフォーマンスを止め、現場に行き復興事業を支援すべきである。
 野党議員、秘書団、後援会が全力を挙げて現場の要求を聞き、汲み上げ、全国の野党支持者の支援を得て、応えていく。それだけが菅の現場での口先パフォーマンスに対抗できる。菅は「必ずやります」という。そのときは聴衆は期待する。だがすぐに騙されたと気がつく。鳩の時もそうだった。
 野党議員は口先だけでなく、自分で汗を流して現場の要求に答えよ。そうすれば国会やマスコミでごたごた言っている時間は無いはずだ。たとえ被災地が選挙区でなくても、そうやって信頼を獲得すれば、選挙の時は被災地から駆けつけて支援してくれるはずである。
現地に行けば、体がいくつあっても足りないほどやることはある。
 政治不信。政府の形骸化。無政府状態の克服はそこからしか生まれない。

 菅 直人を引き摺り下ろすには、チュニジアやエジプトの民衆の方法を学ぶのは有効である。しかし、政治への信頼を取り戻すには、タリバーンハマスの方法も参考になる。彼らは一部に信じられているように、銃で住民を脅して従わせているのではない。住民の生活を支える活動で支持されているから、如何なる武力弾圧にもかかわらず壊滅しないのである。もちろんタリバーンがそのまま世界で認められるべきではない。しかし、アルカイダと同一視して排除するのでなく、その下に、そうしなければ生きられない民衆の居る事を見逃してはならない。そして沖縄棄民や東北棄民を、タリバーンような偏った政治傾向の支持者にしてはならない。

 極論をするならば、今国民国家としての日本は戦争中である。戦争は国内に分裂があっては遂行できない。国内分裂の回避には、挙国一致思想が成り立つ場合と、反対派を力で押さえ込んでしまった場合とがある。他国との戦争では、国際関係が国内対立に持ち込まれ、国内対立は避けられない。しかし今の日本の戦争は、相手は自然災害である。国内の政治休戦、階級闘争休戦は、その気になれば可能である。しかもこの戦争には、世界70カ国以上が日本に協力を申し出ている。世界が一つになるチャンスが与えられているのである。
 ドイツの原発使用延長の即時停止、イタリアの原発再開に対する国民投票の結果は、原発保有国が、国益の枠を超えて運命共同体であることを示した。
 フランスは、原発推進の立場から事故の沈静化に協力している。それは単に金儲けだけではない。福島原発事故の沈静化に失敗すれば、原発立国という戦略が吹き飛んでしまうのである。したがって、イタリアと正反対の方針を維持しながら、フランスも運命共同体の一員であることを示した。

            2011年6月20日