世界経済危機の本質

世界経済危機の本質(2011.11.3 岩内レポート)
 産業革命以後、先進諸国は資源と市場を求めて領土拡大を行なった。それはマネーの法則に突き動かされたあらたな帝国主義であった。
 やがて、いわゆる列強の拡大した領土は境界を形成し、領土を略奪する市場再編成の戦争、帝国主義国間の戦争の時代へと進んだ。
 こうした一つ一つの国家の進化過程では、「過剰生産恐慌」論という経済法則が働いている。ある商品の不足があると、その生産のために投資活動が活発となる。結果として設備が過剰となり、商品が余る。不要な商品は売れないし、売る為のダンピングが起きる。つまりデフレ不況が発生する。こうした波が一つの域内で発生する限り、好況と不況は繰り返されることになる。
 だがそうした閉塞状況から抜け出す方法がある。それを市場拡大=領土拡大に求めたのが帝国主義である。

 帝国主義戦争の時代になると、市場の拡大と言う外延的拡大による成長条件だけでなく、つまり戦利品だけでなく、戦争行為そのものが新たな需要・市場を生み出した。兵器産業で技術革新が進み、しかもその市場は戦争が続く限り保障された。兵器産業に参入した企業は莫大な利益を得た。
 武器購入のために先行投資した国家(政府)は、その負債を、兵器産業の好景気による税収の増加と、国民からの戦費調達、敗戦国からの賠償によって補うことが出来た。帝国主義戦争の原形的ビジネスモデルである。ただしこの原形モデルが永続したわけではない。実際にはそのモデルで説明できたのは第2次世界大戦前までである。ところが多くの人は、帝国主義と戦争をこのモデルで理解している。その結果今日の情勢に対して全く対応できていない。

 原形的帝国主義戦争では、戦勝国は莫大な利益を得た。ただしこの戦争は、敗戦国市民を殲滅することが目的ではない。自国市場に組み込むことが目的である。拡大した市場はやがて狭隘化し、次の拡大要求に迫られるが、敗戦国を組み込むことで、その緊急性は緩和される。
 それだけではない。中国のような広大な市場、地域を完全に自国市場に組み込むことは出来ないし、したがって市場の秩序維持は他者に委ねられる。当然その他者は、他の帝国主義国家も含まれる。したがって勝利した帝国主義国家は、次の戦争に向けて準備を迫られるし、その規模は拡大する。それが、一旦は清算できた国家の負債を再び膨らませる。
 アメリカはテキサス併合によってそれ自体広大な領土を保有していた。流入する移民の増加が、それ自体で市場拡大を保障した。したがって第一次大戦までのアメリカは、領土拡大に狂奔するヨーロッパに対しては距離を置いていた。
 それ自体の領土、市場が無限でないことを思い知らされたのは、1929年の恐慌である。それでもアメリカは、ニューディールによってなんとか市場経済の完全な崩壊を免れた。だが、世界の成長センターであるアメリカの景気後退で、世界経済はアメリカ以上に混乱に陥れられた。アメリカのこの余裕が、ヨーロッパ諸国のような自国の何倍もの植民地を支配しようと言う狂気に陥れなかったともいえる。
 そのアメリカの主導権により、第2次世界大戦以後の世界、国連は戦争による領土の拡大、国境の変更を禁止した。つまり過剰生産恐慌=戦争による市場拡大という最初の一手は禁じられた。
 戦後体制を受け止める側には、この変化が理解できていない者が多い。その上、理解している部分は「アメリカの支配」という悪意を持ったアピールにより、アメリカが領土拡大を目論んでいると宣伝する。それを信じ込んだ連中の反米闘争は、領土を守る民族主義闘争へと捻じ曲げられる。
 第2次世界大戦後のアメリカの狙いは領土拡大による市場拡大ではない。荒廃した世界の復興による、自由貿易を基軸とした市場拡大であった。だがアメリカの意図が領土拡大だと信じる部分を組織した反米勢力が、このアメリカの目的を阻み続けた。そこで生まれたのが冷戦体制である。

 冷戦体制は2面の効果を持っていた。アメリカを盟主とした自由主義市場は、共産主義への恐怖と言う踏み絵によって域内の秩序が維持された。また、武力均衡を保つ為の軍拡競争は、軍事産業市場の無限とも思える市場拡大をもたらした。
 アメリカの軍備強化のための財政支出増加に対してだれも文句を言わず負担増を受け入れた。アメリカ国債も、当然無条件に引き受けられた。
 アメリカの国家資本は、軍事産業を通してアメリカ市民にばら撒かれた。市民の旺盛な購買によって企業は潤い、税金や国債売却により国家財政に還流した。当然世界からアメリカ市場に資金が流れ込んだ。
 日本にとって冷戦は今日の地方自治体の原発と同じ効果をもたらした。冷戦特需こそが実は日本の経済成長のエンジンであった。そして日本にもたらされたマネーは、アメリカ国債保有と言う形で還流した。

 ソ連崩壊と冷戦終結。ここに今日の世界経済危機の基点があると言える。日本にとっては正にそのとおりである。ただし、冷戦と言うマネー鉱山の資源枯渇によって一直線に今日の危機に進んだのではなかった。アメリカは、金融市場自由化を基軸にして、国境が取り払われた地球全域に単一市場を作ることで、市場の閉塞を回避しようと試みた。投機資本は、世界中を動き回り、あるところに突然ブームを巻き起こし、そして破滅の淵に突き落として来た。世界経済、世界総資本の利害と個別国家、個別資本の利害の対立が噴出し続けた。それでもしばらくは、世界協調によって致命的な破滅は回避され続けた。
 この総論と各論の矛盾が、今世界的に極限に達しようとしている。EU内部で各国間の格差が広がっているだけではない。各国内でも格差が広がっている。
 日本を例にとれば、東京と地方の格差拡大は止まる所を知らない。原発立地地域とそうでないところの格差も大きい。さらに東北は、経済規模を大きく低下することが確実である。そしてその格差を是正する国家、国家財政は破綻状態である。日本のこの状態が、実は世界の各地に同じ状態を作り出しているだけでなく、世界の状態がその総合されたものである。

 過剰生産の実態、市場狭隘化の実体は本当に地球規模のものとなっているかと言えばそうではない。世界経済危機からすら取り残された地域が存在する。ハイチでは大震災からの復興が遅れ、いまだに伝染病患者も多発している。アフリカで多くの飢餓地域がある。こうした地域に復興資金が投入されれば、たちまちにして需要は膨れ上がる。それは東北に復興特需をつくるのと同じ原理である。
  例えば東北について考える。日本政府は復興特需を生み出す資金力を持っていない。だがもし、日本政府が東北への投資に対して十分な保障を与えれば、不況で行き場を失った投機資金はたちまち東北に流れ込むだろう。
 同じようなことがアフリカ、例えばソマリアなどで考えられないか?問題は治安である。それは個別資本の対応ではどうにも出来ない。その結果として最貧地域は放置されている。ソマリアなどの治安が安定し資金が流入すれば、そこは新たな世界成長センターとなり、投機資本にとっても新たな投資先となる。それが出来ないのは、あるところには余りすぎ、無い所には皆無というマネーの偏在があるからである。そしてこの状態こそが、資本主義自由経済の根本的欠陥である。マネーは市場を循環しながらやがて偏在し、循環そのものが阻害されて、貧困によって経済が破綻するだけでなく、資本主義は機能不全に陥ってしまうのである。
 アメリカを中心とした世界金融資本のリーダー達は、ようするに目先の市場狭隘化に対して、その市場をとりあえず広げようとした。それが金融グローバリズムである。だが、目先の欲望、もっともっと儲けて利益を独占したいという欲望そのものが市場狭隘化の原因であることに気がつかない。彼らの富の独占が、最貧困国を生み出し、そこでは自由な経済活動の条件である治安が確保されない。世界の平和と安定の維持に万能であると思い込んでいたアメリカの軍隊は、冷戦後はクーウェイトでだけは、多国籍軍の中心となることでその役割を果たしたが、その後は完全に無力であることを証明した。秩序が崩壊し、世界市場から脱落していく地域に対しては、もはや世界の軍事力は全く無力である。

 冷戦終結後、成長センターはつぎつぎと場所を代え、巨大な中国だけが何とか長持ちしている。しかし中国は、成長センターになった時にはすでに世界経済に組み込まれている。それが、アメリカが長い間世界経済の支配者であった時と条件が違っている。世界の中でも中国国内でも、この世界的情況から安全ではいられない。
 マネーの偏在は社会に次のような情況をもたらす。
 富裕者と貧困層が混在する社会では、治安を維持する為に権力機構が強大化する。そのことで社会秩序が安定すれば、その社会は投資対象社会と評価され、マネーが流れ込み、地域経済は維持される。第2次世界大戦まではその極端な形はファシズムなどの全体主義として現れた。戦後でも、今日なお独裁国家として維持されている所は多い。さらに独裁者の富の独占を可能にし、石油輸出などで国家財政が潤っても民主化されなかった地域では、今激しい民主化闘争に曝されている。
 新たな傾向としては、強権支配で治安を維持するのでなく、市民の合意形成による格差縮小、というより貧困層の所得底上げで貧困層をなくし、治安の安定を図る北欧型社会民主主義の登場がある。
 ギリシャでは一握りの富裕者がほぼ国家を経営し、多数の労働者を公務員として雇用してきた。その安定を基礎に発行し続けた国債により債務超過に陥り、リストラが不可避になって市民、労働者の抵抗で混乱に陥っている。北欧のような市民の合意形成でなく、富裕者による公務員買収方式は、放漫経営による資金不足に陥って、あっけなく崩壊する。
 ソマリアスーダンなどの最貧国では、国家、政府は無力であり、暴力が日常を支配する無秩序社会となっている。部族や家族が集団を形成し、奪い合い、そこに含まれないものは僅かに国連難民キャンプで保護されて生き延びる状態である。
 日本の東北と比較すると各方面から非難を受けるだろうがあえて言う。日本国会は与野党足を引っ張り合って、東北の復興政策の実行が進まない。民間に蓄えがあるからこそ、そうした政府の対応が無い情況でも、東北人は秩序を保ち、自力での復旧に立ち上がっている。

 貧富の差などという言葉では言い表せない大きなマネーの偏在。それはどうして起きるのか。それはマネー自体の持つ法則ではない。資本主義というシステムに投入されたマネーの機能による。
 企業を経営するには資本が必用である。工業で言えば、原材料、エネルギー、労働力購入費、および土地代が必要である。それが多ければ多いほど競争力がある。そして競争に負けると言う恐怖感が、経営者を必要以上の資金蓄積に向わせる。生産や販売に使用されたマネーは市場に還流するが、競争力強化のために蓄えられたマネーはすぐには市場に還流しない。それが利子生み資本として金融市場に投入される。
 人は経営者である限りこの思考から逃れられない。余分のマネーを、儲けたとばかりに遊興に使う経営者は必ず破綻する。そうした経営者失格者は別にしても、まじめな経営者でも間違えれば破綻する。競争力だけでなく、破綻回避の為にも経営者は貯蓄する。したがって必然的にマネーは偏在し、循環が阻害される。こうした情況を緩和するために、連鎖倒産保険などの制度が設けられていて一定の効果を発揮しているが、効果は限定的である。
したがって資本主義である限り、この欠陥は払拭されることは無い。たとえこの法則に支配された経営者を排除してしまったとしてもそれは同じである。たとえ昨日までの被雇人である労働者が取って代わっても。
最近アメリカやヨーロッパで、富裕層から、「富裕層からもっと税金を取るべきだ」という声が上がっている。おそらく彼らは、経営と言う職務から解放され、資本主義マネーの法則から解放された結果、そのことに気がついたのであろう。皮肉をこめて言えば、富裕者の中には、貧困層との階級闘争で打倒され、資産を取上げられてしまわないためにはそのほうが得であると考えているのだろう。北欧型社会民主主義への接近と見ることが出来る。
経営者でなくても、マネーの魅力には取り付かれる。金貨でなく紙幣になった今日でも、お金を蓄えるのが趣味だと言う人は多い。そうした人の蓄えを市場に還流させる方法の一つが税金である。減税が景気を回復させると言う幻想の中で生まれた財政危機。その克服の為の増税は、とりあえずの危機克服には有効である。ただ増税には、マネーに精神を支配された中間層や貧困層が反対すると言う難点がある。たいした税金も払えないくせに!見方によっては、中産階級や貧困者のほうがマネーの法則に支配されているのかもしれない。だからマルクスは「労働者を解放せよ」と呼びかけたのだろうか?。

 日本ではプラザ合意による円高の昂進以前は、景気が良いといえば輸出拡大であった。それがバブル期には内需の比率が高くなった。最近日本の電化製品の競争力が低下した原因の一つとして、過剰性能、過剰品質が言われる。そのための高価格が、開発途上国といわれる世界の成長センターの市場では韓国や中国製品に競争力で後れを取っているといわれる。これは、バブル景気にわく日本の消費者のニーズに合わせた商品開発の結果である。
 不況の中で日本でも、低価格商品はシェアを伸ばしているが、それでも日本の消費者はまだ日本ブランドを好んで選択する傾向は強い。全く同性能、同品質の商品で比較される時が本当の競争力である。目的を持って、日本製に及ばない性能、品質の製品が売れることについては、実は市場ニーズの違いがあると判断される。そして日本製が売れないのは、市場の縮小と看做すべきである。つまり高性能、高品質、高価格商品を購入する消費者人口の減少、すなわち市場の縮小である。つまり市場とは、面積・人口だけで規定されるものではなく、購買力と言う要素が付け加えられる。ということは、貧富の差の拡大もまた市場狭隘化の大きな要素なのである。前にも述べたとおり、この格差がマネー循環を阻害するわけである。